先日、思いつきをTweetしましたが[1]、以下、その続きを少し考えてみました。
組版という言葉は、Wikipediaでは次のように定義されている。
「印刷の一工程で、文字や図版などの要素を配置し、紙面を構成すること。組み付けとも言う。」
印刷においては「版」を複製のために用いる。複製した結果は冊子や書籍の形式に製本される。こうして、「版」のレイアウトは永続的な物体化される。「版」が生み出すものが永続的であるが故に、きれいなレイアウトの「版」を創るのにコストを懸ける意味があり、また、複製する数量が多いときは、頁の数を減らすための努力がコスト削減という価値を生み出す。つまり「版」は印刷に利用されて大きな価値を生む。
組版はDTPの専門家の仕事であるが、このようにDTPは印刷と切り離しにくい。
自動組版で作る版面は、DTP専門家によるそれと比べると複雑さは劣るが、それでも細かい調整がだいぶできるようになってきた。次のような項目である。
・改行位置の調整
・長体による枠内へのテキストの押し込み
・改頁位置の制御(見出しと本文の泣き別れ防止)
・頁内での図の位置のフロートによる調整
・テキストと図の位置関係の入れ替えで頁の空きをなくす
・段組のときの左右の行の位置揃え
これらは、ほとんど組版エンジンの中のプログラムで自動処理できる。さらには、先日の「AH Formatter事例紹介セミナー」でTony Graham氏が紹介したように、組版エンジンの外側にワークフローを組んで図版の最適配置の決定もできる[2]。こうした処理の自動化は組版オペレータの判断をプログラム処理に置き換えるもの、自動組版のインテリジェント化である。現在は、コンピューターの処理能力が高まったので、インテリジェントな自動組版の高速処理ができる。
自動組版のインテリジェント化のコストは、それが永続的な複製物を作る「版」への投資であることによって正当化される。
EPUBリーダーでは頁表示が標準的に採用されているが、電子端末での画面は、読者が読む瞬間だけ頁表示するものであり、永続的な複製物を作るものではない。
こう考えると、組版と電子端末上での画面表示のための可視化(レンダリング)の戦略の間には、かなり根本的な相違がありそうだ。
印刷を想定しないPDF作成においてテキストや図などを頁上に配置する戦略は、その中間になるのだろうか。
[1] 組版は紙という静的な媒体上に、コンテンツを最適配置する概念で、最適配置のために何回も試行してもかまわない。一方、CSSは電子媒体上に瞬時にコンテンツを表示することを狙っており、最適配置よりも、一応見えれば良いということが優先される。
[2] JATS組版:3つ数えるくらい簡単
でじたるでの定義は明らかではないが、
版=ジオメトリを与える
レンダリング=視覚化
くらいかな?
組版=オブジェクトにジオメトリを与える
ムダな空白をトル のはレンダリング予測値の評価で組版を変える
ことでしょうから、組版にレンダリングの一部機能が必要になる。
版 イコール レンダリング にならないのは、
版の一部分の文字を差し替えてレンダリングすることがある
など定義もちょっとあいまいになる。
このブログの論点は、版と画面表示の経済的側面=コスト面からみたときの比較なんです。
ただし、PDFを画面で見るのであれば、コスト面の論点は成立しないかもしれませんね。
たとえば、画面表示して検索するためだけのPDFであればそんなに緻密なレイアウトは正当化されないのではないでしょうか? 紙で複製するから初めてレイアウトにコストを懸けることが正当化される?
たとえば、ある情報量をどうしても1頁にいれようとすると、文字間を詰めたり、あるいは、文字を長体にして詰めることが必要になります。そういう必要性が生まれるのは紙に印刷することが大きな動機だと思います。
しかし、画面でみるだけなら、無理に1画面に詰める必要はないし、そもそも画面の大きさが特定されないのであれば1画面に詰めるという処理自体が意味がなくなります。