『本はどのように消えていくのか』(津野 海太郎著、晶文社、1996年発行)
四六判、220頁、1900円+税
書名と同名の短文を中核とする短文集である。一読して、やはり「本はどのように消えていくのか」(pp. 76-97)が最も印象に残る。
本文の趣旨を整理すると、次のようになるだろう。
冒頭で「はたして紙と活字の本はなくなるのか。」と問い、「おそらくなくなるだろう。」、ただし、数百年かかるだろう、と答える。本文で論じているのはどのような過程をたどってなくなるのか? ということである。
まず、紙と活字の本のモノとしての側面を、①明朝体の文字をタテヨコそろえて組み、②それを白い紙の上にインキのしみとして定着し、③綴じてページづけしたもの、と定義付ける。(p.77)
津野さんは、そのような本と並行して、数十年の間に①ネットワークを通じてデータを入手し、②ディスプレイ画面にデジタル文字として表示、③複数のウィンドウを切り替ながら読むという仕組みが出現するという。(p.91)
こうしたモノとしてのデジタル電子本は50年以内には完成するかもしれない。しかし、「いまあるような紙と活字の本が、まるごと別のモノによっておきかえられるには百年、二百年、いや三百年かかる。」(p.92)
その理由は、紙と活字の本は「水のように流れる自分の想念を書くことによってせきとめ、ふかめ、それをインキのしみとして、紙やその他の素材の上にしっかり定着しつづけてきた。」(p.94)、「ディジタル・ネットワークにおける…中略…ディスプレイ画面上の文字はインキのしみではなく、かげろうのようにはかない一瞬の映像に過ぎない。印刷が印刷でないものにとってかわられるということは、…印刷によってきざまれる動と静、運動と定着のリズムが私たちの社会から完全に消滅してしまうことを意味する。」(p.95)
要するに印刷が安心感の根拠であるが、モノとしての電子本が新しい安心感の根拠になるまでの社会あるいは人間の「読書習慣」の変化には数百年かかるだろうから、その間は、紙と活字の本と新しいデジタルの本が共存する期間となる、というのが津野さんの主張の骨子である。
さて、この記事が書かれてから既に20年になろうとしている。この間、活字は既に消滅し、デジタルフォントに置き換えられた、そして印刷もデジタル印刷に変わりつつある。そして、津野さんのいうデジタル電子本も技術的にはかなり進んできた。そして電子書籍が一部で確実に普及している。
しかし、この文章の冒頭の「はたして紙と活字の本はなくなるだろうか?」という設問への答えはまだ見えておらず、相変わらず想像力を掻き立てる問いのままである。
本は津野さんのいうように一つの世界観を封じ込めた精神的なカプセルである。そのカプセルの内容を表示する装置が紙か電子デバイスであるかということが紙の本と現在のデジタル本の違いである。ところで、そのカプセルの内容を紙の上に定着させた場合と、画面に一瞬表示した場合で、読み手に与える効果・影響にどの程度の相違があるのだろうか? これはまだはっきりとはわかっていない。津野さんの主張は、その相違および読書習慣の永続性を強調しすぎているとも思える。
いずれにせよ、日々の糧を得ようとしてアクセクしているわが身にとっては、数百年後に紙と活字の本はなくなるだろうというのは時間のスケールが違いすぎる。