本の形を考える―製本した本の扉の種類について日本語と英語の本の対応つけについて検討(草稿)

CAS-UBは、プリント・オン・デマンドで制作する本を作る機能を強化しています。

製本した本には一定の構造があります。基本的なところでその基本構造に従いながらも、いろいろな構成の本を簡単に制作できるようにするのが課題のひとつです。

まず、基本的な構造を整理します。本の構造を大きく分けると表紙と内容に分かれます。内容はさらに前付け、本文、後付けに分けられます。前付けは、前書き、献辞、謝辞、目次などの諸要素を含みますが、そのうちで一番ややこしいのが本の書名を記載した扉関係です。なぜかと言いますと書名を記載した扉は表紙を別にしても3つ配置される可能性があるためです。どの扉がどこに配置されるかを整理する必要があります。

さらに、CAS-UBでは日本語と英語の本を制作しますので、日本語の本と英語の本の両方を考慮しなければなりません。実際の本を調べますと日本語の本と英語の本ではかなり違います。日本語の本は扉の付け方がまちまちで不規則になっています。英語の本は規則的に作られているようです。

しかし、そういっては話が成り立ちませんので、英語版と日本語版の比較を含めて、次のように整理しようかと考えています。

日本語の本 英語の本
表紙 Cover
前扉(仮扉) Bastard title(Book half title)
本扉(化粧扉) Title page
目次扉
書名扉(中扉) Half title(Second book half title)

以下に、実際の本での扉の付け方と合わせて説明します。説明の中の各タイプ扉の出現比率は、日本語の本は手元の本102冊(2000年以降発行)を調べた結果、英語の本は19冊(1980年代~2000年代が中心)を調べた結果です。なお、まだ調査した本の数が少ないため、数字は一応の目安とお考えください。

1.表紙、Cover

表紙は表1(表面)、表2(表1の裏面=内側)、表3(裏表紙の内側)表4(裏表紙)があります。このほか背表紙もあります。ここでいう表紙とは表1を指します。

英語でCoverといいますと、ジャケットを示しそうですので他に良い表現があると良いのですが。

2.前扉(仮扉)、Bastard title(Book half title)

カバーの内側で、カバーを捲ったときの本の最初に出てくることがある書名のみを記載した扉です。但し、日本語の本では前扉のないものが大多数です。手元の日本語の本では前扉のある本は1割以下でした。また、日本語の本は、本扉の後に、書名だけを記載した前扉が現れることがあります。この場合、本扉と前扉の前後が逆になります[1]

一方、英語の本は約9割の本に書名のみを記載した扉があります。A History of the Bastard Title[2]にBastard titleの歴史の説明があります。昔は、印刷した本は製本しない状態で販売し、本を購入した人が自分で製本したそうです。印刷した本を積み上げて販売する際に本扉が傷まないよう、本扉の前に書名だけ印刷した紙を一番上に置いたようです。すべての本が製本して販売されている現代ではBastard titleは不要で、本の盲腸といえるかもしれません。なお、Bastard titleとHalf titleは同じものと考える人もいて、あまり統一されてはいないようです。

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図1 Bastard Titleの例

3.本扉、Title page

書名(タイトル)、副題、著者、発行元などを記載した扉。これが正式な本の扉と言えるようです。日本語の本では本文とは別の用紙に印刷することも多くあります。本扉、Title pageはすべての本にあります。英語の本では、Title pageの裏面には権利関係などの表示があります。

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図2 Title Pageの例(この例では、Bastard Titleの裏頁(左頁)に、著者の書籍リストが紹介されています。)

4.目次扉

日本語の本では、目次の前に「書名」+「目次」と印刷した扉が配置されることがあります。手元の本では約4割強の本に目次扉がありました。英語の本では目次扉に相当する扉は見当たりません。

5.書名扉(中扉)、Half title(Second book half title)

本の前書きや目次などを前付けと言いますが、前付けと本文の間に、書名のみを記載した扉を挟む場合があります。これを英語ではHalf title[3]と言うようです。書名扉がある本はどちらかというと少数派で、日本語の本は2割強、英語の本は4割程度です。

なお、日本語の本では、書名扉と本文の間に、献辞、クレジットなどの前付けの一部が置かれることがあります。このため書名扉が前付けなのか本文なのか曖昧です。英語の本ではHalf titleに一葉を使う(裏白)のことが多く、Half titleは本文の開始になっています。またHalf titleを本文頁番号の開始位置にする本と本文頁番号には含めないケースがあります。

「Modern Methods of Book Composition」という20世紀初頭に書かれた本[4]の130項の注には、Bastard TitleとHalf Titleを混同してはいけないと書いてあります。しかし、前述のようにBastard TitleとHalf Titleを区別していないで同じとしているケースもあります[5]。このあたりには本の歴史のとらえ方も関係しているかもしれません。どちらが妥当かはまだ分かりませんが、Bastard TitleとHalf Titleを両方もつ本もありますのでとりあえず別として考えておきます。

[1]日本語の本では、本の書名などをデザインして本文と別の用紙に印刷する(化粧扉と呼ぶらしい)ことが一般的(調査した本の4割強)に行われています。そのとき次に本扉を置くことがあります。このときは化粧扉+本扉の組になります。英語の本はそのようなものが少ないようです。このあたりはもっと調べてみる必要があります。
[2]http://blog.bookstellyouwhy.com/history-of-the-bastard-title
[3]http://en.wikipedia.org/wiki/Half_title
[4]http://archive.org/details/practicetypogra11vinngoog
[5]http://andreareider.com/2011/01/23/the-basics-of-book-design/
[6] ()内の仮扉、中扉、Book half title、Second book half titleは、「書籍編集制作」(中島 正純著、あっぷる出版社、 2014年3月)pp.44-45による。(2016年6月14日追記)

参考)本の形を考えるシリーズ
1.本の折り方と書籍の総ページ数-今の本は8ページ単位で折っているものも結構多いようです

『本をつくる者の心 造本40年』

『本をつくる者の心 造本40年』(藤森 善貢著、日本エディターズスクール出版部、1986年発行)
四六判、上製本、262頁

20150322

藤森氏は岩波書店で長く仕事をされ、定年退職後は本づくりを軸として出版技術の体系化・教育・普及のために活動された方である。本書は藤森氏が亡くなったあと、日本エディタースクールがまとめたもので「遺稿集」にあたる。神田の古本屋で入手して一気に読んでしまった。藤森氏と縁が深かったという精興社が印刷を、牧製本が製本を担当している。刊行されてから30年近いが、読みやすく、開きやすく、堅牢にできている。造本が素晴らしい本である。

遺稿集ということで、さまざまな原稿が収録されているが、その中核は造本40年という一種の自分史にあたる章(pp. 21-144)である。

藤森氏は岩波茂雄さんの遠縁にあたる方で、岩波氏を頼って上京し、最初は2年ほど東京の書店で働き、書店が解散したあと岩波書店に入店する。昭和の初めの書店の仕事が生き生きと描かれている。岩波書店に入ってからは営業、広告を経験したあと徴兵されて、終戦後再び岩波書店に復帰した。

満州事変後、戦争が近くなった時期の警察による本の検閲や発売禁止本などへの対応の経験(pp. 31-40)を読むと出版が不自由な時代の世相を身近に感じられる。

戦後は書籍の製作にたづさわり、辞書を中心にさまざまな書籍を作ってきた。特に『広辞苑』の製作がもっとも印象深い。他にも『岩波英和辞典』新版、『岩波ロシア語辞典』、『岩波国語辞典』、などなどの実績が次々に登場して眼が眩むほどである。いまではこのような事典を新しく紙で出すのは難しいのではないだろうか。まさしく出版の輝かしい最盛期である。

藤森氏は「活字の可読性」を研究したり、「造本・装幀」、特に本が壊れない造本ということについて科学的な精神で取り組まれ、その集大成が、日本エディタースクールから発行された『出版編集技術』(上下二巻)となったようだ。

製作面の入門者には、最後の「造本上の良い本・悪い本」という章(pp. 203-245)が参考になる。1974年に行われた株式会社ほるぷの幹部研修会の講演録のようだが、最近の造本が悪くなっていることを述べ、戦後はパルプに闊葉樹を使っているため繊維が短く質が低い、短期間に製本するため膠が本に浸透しない、このため本が壊れるという。

講演録ということで若干話が横に跳んだりしているが、造本は内容・用途・刊行意図によって方式を選ぶという考え方について述べている箇所も興味深い。このポイントは、①長く読まれる専門書は30年、50年という堅牢で長期にわたってもつ紙と製本方式を選ぶことになる。このように内容によって上製本にするか、仮製本にするかを決める。②学生の引く小型事典のように使用頻度が多く、持ち運びやすいものは小型で軽く、しかも開きやすく安い、というように用途で形態が決まる。③文庫本や新書のように図書の普及を狙うものは持ち歩き、定価を安くという条件となる。

但し、今は、専門書は電子化して活用しやすくする方が重要で、紙の本は読み捨てにしても良いのではないかとも思える。このようにデジタル化によって考え方の基準を変えるべきところもあるように思う。そういう意味では批判的に検証する読書態度が必要かもしれない。

『本はどのように消えていくのか』

『本はどのように消えていくのか』(津野 海太郎著、晶文社、1996年発行)
四六判、220頁、1900円+税

20150321

書名と同名の短文を中核とする短文集である。一読して、やはり「本はどのように消えていくのか」(pp. 76-97)が最も印象に残る。

本文の趣旨を整理すると、次のようになるだろう。

冒頭で「はたして紙と活字の本はなくなるのか。」と問い、「おそらくなくなるだろう。」、ただし、数百年かかるだろう、と答える。本文で論じているのはどのような過程をたどってなくなるのか? ということである。

まず、紙と活字の本のモノとしての側面を、①明朝体の文字をタテヨコそろえて組み、②それを白い紙の上にインキのしみとして定着し、③綴じてページづけしたもの、と定義付ける。(p.77)

津野さんは、そのような本と並行して、数十年の間に①ネットワークを通じてデータを入手し、②ディスプレイ画面にデジタル文字として表示、③複数のウィンドウを切り替ながら読むという仕組みが出現するという。(p.91)

こうしたモノとしてのデジタル電子本は50年以内には完成するかもしれない。しかし、「いまあるような紙と活字の本が、まるごと別のモノによっておきかえられるには百年、二百年、いや三百年かかる。」(p.92)

その理由は、紙と活字の本は「水のように流れる自分の想念を書くことによってせきとめ、ふかめ、それをインキのしみとして、紙やその他の素材の上にしっかり定着しつづけてきた。」(p.94)、「ディジタル・ネットワークにおける…中略…ディスプレイ画面上の文字はインキのしみではなく、かげろうのようにはかない一瞬の映像に過ぎない。印刷が印刷でないものにとってかわられるということは、…印刷によってきざまれる動と静、運動と定着のリズムが私たちの社会から完全に消滅してしまうことを意味する。」(p.95)

要するに印刷が安心感の根拠であるが、モノとしての電子本が新しい安心感の根拠になるまでの社会あるいは人間の「読書習慣」の変化には数百年かかるだろうから、その間は、紙と活字の本と新しいデジタルの本が共存する期間となる、というのが津野さんの主張の骨子である。

さて、この記事が書かれてから既に20年になろうとしている。この間、活字は既に消滅し、デジタルフォントに置き換えられた、そして印刷もデジタル印刷に変わりつつある。そして、津野さんのいうデジタル電子本も技術的にはかなり進んできた。そして電子書籍が一部で確実に普及している。

しかし、この文章の冒頭の「はたして紙と活字の本はなくなるだろうか?」という設問への答えはまだ見えておらず、相変わらず想像力を掻き立てる問いのままである。

本は津野さんのいうように一つの世界観を封じ込めた精神的なカプセルである。そのカプセルの内容を表示する装置が紙か電子デバイスであるかということが紙の本と現在のデジタル本の違いである。ところで、そのカプセルの内容を紙の上に定着させた場合と、画面に一瞬表示した場合で、読み手に与える効果・影響にどの程度の相違があるのだろうか? これはまだはっきりとはわかっていない。津野さんの主張は、その相違および読書習慣の永続性を強調しすぎているとも思える。

いずれにせよ、日々の糧を得ようとしてアクセクしているわが身にとっては、数百年後に紙と活字の本はなくなるだろうというのは時間のスケールが違いすぎる。

『活字が消えた日』

『活字が消えた日』(中西 秀彦著、晶文社、1994年)
四六判、251頁、2,600円+消費税

20150319

京都の老舗印刷会社中西印刷が活版を完全にやめて電算写植に移行するまでの約6年間をドキュメンタリー風につづった書である。以前から書名は何度も見かけて知っていたがまだ読んでいなかった。たまたま先日神田の古本屋で見つけて早速購入して一読。若旦那こと中西さんの筆力に感銘を受けた。

1980年代から1990年代にかけて15年足らずの間に活版から電算写植へと制作技術が短期間で変遷したときの日々の出来事がまるで目の前の出来事のようにいきいきと描きだされている。

活字を拾い(「文撰」)・活字を凧糸で組み上げてページの形に整える「植字」を行うベテランの職人技に関心しながらも、若旦那はコンピュータを使った合理的な電算写植へと突き進む。

コンピュータによる組版にかけた若い息子と彼の父親である社長の、会社・印刷の未来をめぐる対話も興味深い。家業としての印刷会社ならでは風景である。

活版の設備投資はすべて償却済みなので償却負担がない。それに対して、新しいコンピュータ組版の設備は膨大な新規設備投資必要なため、生産性が上がっても、償却負担が大きくて儲からないという話もある(p.226)。

技術の強みと弱みを見据え、将来性を見て投資の判断を行っていかなければならない印刷会社の経営の難しさも良く分かる。

新ICTシステム展開に対する日米の空港における保守的態度、革新的態度の対照性を体験

書籍制作Webサービス『CAS-UB』のブログとしてはオフ・トピックですが、先週、米国に出張した際、空港でのICTシステム導入展開に関して、興味深い事例に遭遇しましたので紹介します。2つの事例を目撃しただけですが、なんとなく革新的システムの展開に対する日米の取り組みに、文化の対照性を感じました。

1.航空会社のチェックイン・システム

最初の例は、航空会社のチェックイン・カウンターでの新システム配置の相違です。海外旅行に行かれる方は、既にご存知の通り、航空会社のチェックイン・システムは自動化が進んでいます。しかし、同じ航空会社の日米の空港チェックイン・カウンターで配備の仕方が対照的になっている例がありました。

a.成田空港

次の写真は、成田空港におけるアメリカン航空のチェックイン・カウンターです。各受付カウンターに、セルフチェックインのための装置が配備されています。すべてのカウンターには、従来通りのチェックイン受付担当者も配置されています。旅客は待ち行列に並びます。チェックインは空いたカウンターの担当者が行列の先頭から順番に一人ずつ呼んで処理します。セルフチェックイン装置のディスプレイ画面には、受付のための挨拶文が表示されているにも関わらず、誰もセルフチェックインの装置を使っていません。係員は、列を作ってチェックインを待っている人達に、セルフチェックインを案内しようともしていません。ここでは、折角のセルフチェックイン装置は全く実用に供されていません。

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成田空港のアメリカン航空チェックイン・カウンターの様子

b.米国・フィラデルフィア空港

次の写真は、同じアメリカン航空のフィラデルフィア空港のチェックイン・カウンターです。セルフチェックイン装置だけの島があり、そこで(エコノミー客)全員がセルフチェックイン装置でチェックインするようになっています。セルフチェックイン装置をうまく使えない人もいるのですが、そういう人をアシストする係の人がいて、忙しく使い方を教えています。アシスト係りがあまりにも急いでいるので間違えそうで心配な位です。セルフチェックイン装置からは搭乗チケットだけでなく、預ける荷物につけるタグまでがプリントアウトされます。旅客は自分で荷物にタグまでつけてカウンターに出します。カウンターでは旅客の手荷物を受け入れるだけです。

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フィラデルフィア空港のアメリカン航空チェックイン・カウンターの様子

《日米比較》
成田空港では、従来の方式と新ICTシステムを並行して動かしています。しかし、実際にはだれも新ICTシステムを使わず、新ICTシステムはほとんど飾りとなっているようです[1]。フィラデルフィア空港では全員が新ICTシステムを使います。

2.入国審査システム

次の例は、入国審査システムです。どうやら、日米でICTを使った自動化入国管理システムが展開されようとしているようです。このシステムの展開の仕方にも日米でやり方が対照的になっていました。(入国審査のエリアはおそらく撮影禁止と理解していて、写真を撮らなかったのが残念です。)

a.米国ダラス・フォートワース空港

米国は、毎年2回程度訪問しています。昨年はロスアンジェルス空港とワシントン・レーガン空港を利用しました。米国入国の際は、最初の到着空港で入国審査があります。これまではいつも長い審査待ち行列にうんざりしていました。

ところが、今回、ダラス・フォートワース空港に到着して、入国審査に向かって驚きました。ここではESTA登録者全員に対して自動化した入国審査を通るように誘導されていました。そこに並んでいるのは、航空会社のセルフチェックイン装置に似た端末です。旅客自身が空いている端末を見つけます。入国審査官の面接カウンターはまったくありません。

従来は、審査官が顔写真を撮影していました。しかし、今回の新システムはセルフ審査情報入力端末(勝手に命名しています)に向かってすべて自分で入力します(誰も面倒見てくれませんでした)。顔写真の撮影、指紋の採取も機械の指示によります。左右の指を画面に置くと採取ができたかどうか端末に表示されます。さらに、従来であれば、入国審査の後、荷物を取って、手書きで記入した関税申告用紙を提出していました。新システムでは、審査情報に加えて、関税申告書に手書きで記入する内容もディスプレイにタッチして入力します。すべての入力が終わるとレシートをプリントアウトします。

この効果はテキメンで、今回は審査待ち行列に並ぶ時間はほとんどなく、入国審査の所要時間はずっと早くなりました。ただし、ディスプレイの質問が全部英語でちゃんと英語の説明文を読んで回答しないとスムーズに通過できません。「例えば、果物を所有していますか?」という質問の回答は、Yesがデフォルトですが、しかし、(実際に、もっていないときは)Noを選択しないといけません。英語がわからないか、間違って、デフォルトのままYesで押してしまうと、すんなり通過できないようです。英語が読めないと要注意です。そのうち、質問が多言語化されればかなり効率が良くなりそうです。

入国審査のエリアを抜けて、荷物受取エリアに進むゲートに係官がいてセルフ審査情報入力端末からプリントアウトされたレシートをチェックしています。レシートでOKの人だけ次のエリアに進みます。NGの人は、別の審査窓口(たぶん面接係官のいる窓口)に回されます。みていると、かなり多くの人が別の窓口に振り分けられていました。別の窓口でどういうやり取りがなされているかは不明です。

b.成田空港

成田空港にも自動入国審査システムが配備されています。ここでは自動入国審査システムは審査官による審査のカウンター列の端の方に数台配置されています。これを使おうとして近寄ってみますと「利用するには事前に登録が必要です」と張り紙があります。残念ながら使えません。

私が見ていた5分程度で自動入国審査システムを使っているのは一人だけでした。残りのほとんどすべての人は従来通り、審査官のカウンターで入国手続きを済ませていました。

《日米比較》
日本では、従来の方式を優先し、新端末はお飾りになっています。米国ではすべての人にいきなり新端末を使わせています。習うより慣れろという感じです。

3.結論
この2つの事例には共通項があります。日本の空港でも米国の空港でも同じような新ICTシステムが配備されているにも関わらず:

・日本の空港では、新ICTシステムは従来の人によるカウンターの隣に補助的に用意されています。しかし、ほとんど実用に供されていません。

・米国の空港では、全員が新ICTシステムを使うように誘導されています。もちろん、上手く使えない人がいるわけですが、そういう人は、アシストする役割の人が配置されていて面倒を見てくれます。米国のやり方は、という方針になっているように思いました。

ここに、新システム展開に対する、日本の保守的態度、米国の革新態度の対照性を見たように感じます。e文書法などの導入が、岩盤規制で阻まれて、10年たってもほとんど進まないのと同様に、日本では、折角新ICTシステムを開発しても、現場ではお飾りとして棚上げしてしまい、従来の方法を変えようしていない、と言ったら言い過ぎでしょうか。

[1] もしかしたら、まだ新ICTシステムはまだ稼働していないのか、あるいは私がチェックインしたときは故障していたのかもしれませんが。しかし、電源の入っていない装置には使えない旨の張り紙がありましたので、他の装置は動いていたと思うのですが。

米国の本のジャケット 

『編集とはどのような仕事なのか』[1]には「8 装幀・タイトル・オビ」という章があり、装幀は日本の書籍が世界に誇る長所であるという説明がある。

これを読んで米国の本と日本の本を比べて確認してみたいと考えていたところ、昨日、たまたまシカゴのO’Hare空港で空港内の書店があったので、通りがかりにちょっと覗いてチェックしてみた。

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上の写真は書店の様子である。小さな書店なのでそんなに沢山の本はないが、正面の平積になっている本を横から見てもわかる通り、ハードカバーの本はカバー(ジャケット)が付いているが、ソフトカバーの本はジャケットが付いていない。

ざっと見て回ったところ、店内の棚に並んでいる本も同じで、ハードカバーの本にはジャケットがある。しかし、ソフトカバーの本にはジャケットがなく、本の表紙が綺麗にデザインされている。

上の書店では日本の書籍にオビに相当するものが付いている本はみられなかった。

日本の書籍を書店の店頭で見ると、ハードカバーはもとよりソフトカバーも、単行本はほぼすべての本にジャケットが付いている。新書や文庫までジャケットがついている。さすがにオビは新書にはついていないことも多いが。

もとより、たまたま通りかかった米国の書店で本を少しみただけなので、結論を出というのは早すぎると思うが、ジャケットについては米国の書籍の方が合理的に思える。

PS1: facebookに投稿したところ、コメントをいただきました[2]
PS2:用語:ペーパーバック(仮製本)をソフトカバーに変更しました。

[1] 『編集とはどのような仕事なのか』
[2] 日本では書店で売られているほぼすべての本にジャケットが付いているが、これは行き過ぎではないだろうか? 

『出版社社長兼編集者兼作家の購書術 本には買い方があった!』

『出版社社長兼編集者兼作家の購書術 本には買い方があった!』(中川右介著、小学館新書、2015年2月発行)
新書判、208頁、720円+税

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いまは、「本は本屋で売っている」ことを知らない人が多い(はじめに)という衝撃的な文章を読み、本当なんだろうか? と早速購入した。

本を買うための指南書というふれこみであるが、読んでみると、書かれている内容は業界人から見た書籍の流通に関する説明の量が多い、と感じる。

著者が、出版社の経営者であり、また編集者でもあるので当たり前ではあるが、しかし、タイトルと内容にずれがあるのではないだろうか。その分、中途半端なのが惜しまれる。

実際のところ、解説の内容は出版社側の観点からの、次のような話が多い。

・本の初版印刷部数について。新書・文庫は最初にする部数は1万部前後がほとんど。単行本は四六判が最も多く、定価2000円以下で大手の版元だと5000部~1万部が一般的。中小・零細版元の本は3000部が上限。版元の規模と最初の刷り部数は比例する。大手版元はコストが大きいので5000部でないと会社がやっていけないのがその理由である。(p.31)大手では分業体制になっているのでコストが大きくなるとのことだ。
・発売直後の売れ行きを初速という。売れた本か、売れなかった本かは発売直後の数週刊で決まってしまう。(p.47)
・本の値段の決め方は、内容ではなくて製造原価が大きな要因になっている。(p.169)
・印税の話(pp.172-178)

著者自身がかなり大量の本を買っており、その体験に基づく本の買い方についての説明ももちろんある。人によっては参考になるかもしれないが、東京に住んでいて、ある意味業界人としての観点の説明が多いのでかなり異端のように感じる。

今の出版界の稼ぎ頭は、パートワークなのだそうだ。(p.89)
・パートワークとは、「分冊百科」ともいう。など、定期購読もの
・隔週でCDやDVDが付いたもの
・自動車や戦車の模型がついたもの
・全部集めると帆船が組み立てられる
・十数頁の小冊子がおまけについているが、建前は冊子が本体になっている

この他、出版販売は、書籍を取次、書店経由で売るだけでなく、外商、コンビニ、オンライン書店など多様化している実情も説明されている。

やはり、これは業界もののような気がする。